いじめ問題にもの申す

今日は、いつものブログとは全然違う話題です

現在、某いじめ騒動が、いろいろと話題になっていますね
調べたら、これ専用のwikiまでできあがってる始末

誰が悪かったのか
何が悪かったのか
原因はどこにあるのか


様々な論争が繰り広げられています
加害者の実名が曝され、状況隠匿の背景が暴露され、それが論争に拍車をかけています
こうした状況を見るに付け、私も思うところがありましたので、とりとめとなく記事にしてみようと思います
なぜなら私も、小学生時代に長期・広範囲にわたり、いじめを受けていたからです


まず最初に申し上げます
いじめという行為は、どれだけどんな策を講じようとも、無くなるものではありません
なぜならばこれは、人類の社会構造がもたらす暗黒面で有り、人が人である以上避けられない集団における『争い』という行為の縮図だからです

人という種は、自と他に『違い』があることを認識出来ます
(もちろん野生動物も、彼らから見れば個性があるのかもしれませんが、我々はそれを認識することは困難です)
その違いとは外見だけでなく、性格・思考に関する全てに対してです
しかし人はそうで有りながら、『自』と『他』が異なる存在であることを、本能的に恐れる部分があります
それはおそらく『違う』と言うことは、『集団』からの乖離を指すことだからではないか、と思われます

人はこれだけの文明を築きながら、その実一個体では全く何もできない生き物です
集団からつまみ出されると言うことは、すなわち死を意味すると言っても過言ではありません
故に人は徒党を組み、自身が仲間はずれで無いことに躍起になろうとします
しかし、徒党を組むには、実に矛盾したことですが、わかりやすい『異物』が必要です
理由は単純で、『異物』が居なければ、誰と自分が『仲間』なのか区別が付かないからです
人類が自然の中で、自然を相手にしていた時は、『異物=敵』は『自然』の中に有るのでよかった。それが悪魔や妖怪と言ったものの源泉でしょう
が、その時期を過ぎて、人類が『社会』を組み上げる段階に入ると、既に『自然』は敵ではなくなっていきます
では『敵』はどこに居るのか?
そのために創り出されたであろう概念が、今度は『仲間はずれ』『村八分』だと推測されます
どこかから特異な特徴を持つ誰かを探し出し、それと集団を比べ合うことで、仲間を見分ける
子供達が行う『いじめ』とは、すなわちこの行動が、最も小さい社会構造で再現されたものだと言えます
故に、まずもって『いじめ』が起きること自体は、人の生涯に於いて避けることの出来ない、通過儀礼の一つであるというのは、客観的事実であると、私は思います

しかしさらなる矛盾として、事実上その『差異』こそが、人類を集団として発展させてきた要因である、ということが浮かび上がります
人は絶対に平等ではありません
これは揺るぎ無い事実です
生まれる場所・時間、獲得する知識・技能
生きていく目的、そしていつどんな形で人生の幕を閉じるか
それらの全てに差異があるのは、ごく当たり前のことです
が、『コードギアス』の皇帝シャルルではありませんが、この差異は『差別』のためにあるのではないことを注意しなければなりません
なぜなら差異によって、お互いに持つ者と持たざる者が生まれ、それらの能力の相互扶助によって、全く別の『何か』を生み出す
これが野生動物になく、人類にある最強の強みなのです


では、これらのことが判っていれば『いじめ』はなくなるのか?
答えはNOです

最初に述べたように、人は違う物があることが怖いのです
しかし、どうしても違いがある
この事実を認め、赦し受け入れることを学び、どうやったらその気味悪さの中で耐えていけるか
それを学習するのが『人生』なのです
(もちろんそれも限界があって、故に『鬱』という症状も起きるわけですが)
子供はその赦しの精神をまだ学んでいないし、知るには早すぎる故に、どう頑張ったところでこの『過ち』を犯してしまう物なのです

この『知らない』と言うことが、子供の『いじめ』行為が凄惨且つ残虐になる根本の理由です
己の行為によって起きること、その先に現れる未来を予想出来ないから、いくらでも残酷になれる
予想出来ないのは学習不足なのであって、それを愚かとたしなめることは出来ません
もしこの『無知による純粋な残酷さ』を止めるとしたら、それは大人が何らかの形で『教えて』おくしかありません
大人は未来を予測しえる『学習』を済ましているのですから、子供にアドバイスすることが出来る可能性があります
また、『違う』事は当たり前であり、それは『善』でも『悪』でもないことを、伝えていかなければならないという義務もあります
かけっこで順位を決めないとか、成績表に数値を入れないとか、そんな対応は言語道断です。
違う物同士が、どう助け合っていくのかを教えていく
そのために居る『親』で有り『先生』です

しかし現実問題として、親や先生は何の役にも立たないどころか、かえって問題を助長しているような側面があります
なぜなら、そもそも『いじめ』が起きることが、『悪』であると捉えているのが間違いなのです
そうすると、関係者の『親』や『担任教師』は、過ちを犯した自らを認めたくない故に、問題から目を背けてしまいます
臭いものに蓋をする、というやつです
が、実際はこれは過ちではないということ
そして起きたことを客観的事実として受け止め、そこから学びを得るように導くことで、子供達が次のステップへ成長するチャンスであると、指導すること
それを大人と子供が分かち合わねばなりません
このような段階を踏めない大人の犯す過ちこそが、破滅的な結果をもたらすのです


事実、自分がいじめられている時、先生という物ほど、当てにならぬ物は無いと痛感しました
担任教師が、クラスの子供達と一緒になって、自分を追い詰めるなんて言うのは日常茶飯事だったし、両親が学校に訴えたところで、梨のつぶてだったのを覚えています
自分がどれだけ仲間はずれにされても、持ち物を燃やされても階段から突き落とされても、果ては投石で重傷を負っても、学校関係者の誰一人として、本質的に問題解決を試みた大人は居ませんでした
今もよく記事に上がりますが、「お宅のお子様の育て方に問題があるのではありませんか」なんて台詞は、当時からだってよく聞かれた言葉です
ですから今に至るまで、自分は『教師』という存在が大嫌いです。人生で尊敬に値すると思った教師は、たった一人しか居ません
自分がいじめられていた理由
それはやっぱり『変わっていた』んだと思います、自分が
今だって相当の変わり者ですが、子供ですからもっと変わり者に見えたでしょう
そうじゃ無きゃ学校全体から、小学校6年間ずーっと、村八分にされたりしませんね(苦笑
なんでそんなに変わり者だったのか
そのうちの一つが、現状の自分の鬱状態の遠因であることを、つい最近知りました
相応の検査を受けた結果、自分に『アスペルガー症候群』という、ある種の自閉症の症状があることが判りました
この症状については、ネット上に情報がたくさん落ちてますし、今回の本筋から外れるので割愛します
今ではそれなりの情報のあるこの症状ですが、昔はただの変人で済まされていたでしょう
ですが、他人との接触が絶望的にやばかった自分に、当時出たばかりのMSXというパソコンを与え、それに没頭させてくれた両親のおかげで、曲がりなりにも社会人のまねごと程度は出来るようになりました
正直言えば今だって、その症状に苦しんでいるのは事実です
でも結局、人生なんて何がどう転ぶか、判らないものです
は、これだけ大人をつるし上げるなら、子供に罪はないのでしょうか
それもまたNOです
知らないことは罪なのです
自らが過ちを犯したことを、受け入れて改善するのが、子供の仕事です

子供の命は守られるべきでしょうが、学ぶ上で犯す過ちからは切り離すべきではありません
子供は大人ではありません。大人の常識の範囲では絶対に行動しません
子供には子供の常識範囲があるはずです。そこから逸脱することは、いかなる事であれ罪です
そこは断固として『区別』しなければなりません
そういう意味では、子供をターゲットとして、大人の商品をダウングレードした物を売るのは、馬鹿の発想と言わざるを得ません
『区別』と『差別』は違います。そういう言葉のあやを使い分けてはいけません

仕事で売り物のチラシ配りをしていて、中学生達にチラシを渡さなかった時
「なによ、子供だからって差別するんだ」
と抜かした馬鹿が居りましたが
「君たちはまだ、自分でお金を出せないでしょう。自分で稼いだお金で物を売り買い出来るようになってから、堂々とチラシを取って買い物をしに来なさい」
と返してやったら、真っ赤になって逃げていったのを覚えてます
こういう基本的なことも知らないで、我が物顔をさせることは『平等』とは全く違います

長くなりましたが、事の本質は『臭いものに蓋をする』行為から発している、というのは共通していると思います
間違いを間違いと考えることを止めた世界では、こういうことが起きるのでしょう
障害者を「障がい者」なんて書くのは、その典型です

火中の栗を拾うのは苦痛なのは判ります
しかし、そのために高い地位が有り、給料をもらってるんですから、事が起きた時はその分の働きをするのが有識者ではありませんか?
関係した全ての人が、己の分を弁えた行動を取り、真なる再発防止とはなんであるか、冷静に考えてくれることを切に望みます
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テーマ : 管理人日記 - ジャンル : アニメ・コミック

2012/07/20 14:06 | 雑記COMMENT(3)TRACKBACK(0)  TOP

コメント

大津市のケース

最悪の展開と思いますよ、まず起訴された少年三人の中にPTA会長を務める母親が居て恐らく校長先生らが恐縮したのでしょうね。結果、異例のガサ入れとなって……しかも教育委員会にも問題があるし……まあ、これは関係各位の人事は道義的責任を持って変えるしかないですね。


私はいじめと遊びの見境が無くなったからこうなったと思いますよ……起訴された三人に言いたい、とりあえず全ての罪を認めるのが自分や親にとってよりよい選択なんです。

三少年は遊びや悪ふざけと思っても加害者はいじめと認識したのでしょうね……直接手を下してなくても虐めていた被害者が自殺したと言うのは殺人なんです。


後、基本的な躾は家庭でしてください。共働きで出来ないのなら親も呼べばいい!自分の子が“加害者”になってからは遅いのです。


それとPTAに関しては“モンスターペアレンツ”状態の親を外せるようにしないと教師が持ちません。

No:3504 2012/07/20 19:53 | YF-19k(kyousuke) #vOF08ZPo URL [ 編集 ]

己の欲せざる所は人に施す勿れ

有名な論語の一節ですが、子供にはただこの意味だけ教えればいいと思います。
要は「自分の厭だと思うことは人に対してもしてはいけない」ということです。

私も小学校・中学校・高校で辛い経験をしました。
物を隠されたこともあります。
帰り道におもちゃのBB弾で撃たれたこともあります。
グループ作りで取り残されるのはしょっちゅうでした。
自分は「友達」と思っていた人から「1年の時部活で一緒だったから仲良いだろうと思って2.3年先生に同じクラスにされた。正直迷惑で厭だった」と告白された時は、どうすればいいか分からず、辛かったです。
でも、そんな経験もあって少しは「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言葉を考えるようにったような気がします。

で、今の世の中この言葉をその意味をどれだけ知っている人がいるでしょう?
子供を虐待する親
学校でのいじめ
ここまで言うと飛躍かもしれませんが震災のがれきを受け入れない話や、生きていくのが必死な今のタイミングでの増税・・・
理由はいろいろあるかもしれませんが、

自分がされたら嫌だ・苦しい・辛いと思ったら「絶対に」人にしてはいけない

もう一度大人も子供も思いだしませんか?覚えませんか?

なんて、自分も言えた口ではないですが、それでも・・・これができなければだめだということだけは分かっているつもりです。7

No:3505 2012/07/21 05:38 | 壱華 #- URL [ 編集 ]

ご意見ありがとうございます

「法を知らぬ人間は獣と同じである」
孔子の言葉を意訳したものですが、まさにそう言うことだと思います

心を持たぬのであれば、結局こういうことが繰り返される・・・
真面目に学校の授業に『論語』を復活させた方が良いんじゃ無いのかね?

No:3506 2012/07/22 23:19 | あるす #- URL [ 編集 ]

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