好きこそものの上手なれ されど生き難し(1)

ここんとこ、ゲームともアニメとも関係ない話が多くてすみません

しかし、身体を休めると決まった途端、いろいろと脳裏をよぎることもありまして

好きこそものの上手なれと申しますが、趣味を仕事にできる方というのはとても羨ましい限りです
もちろん、自分はPCは嫌いではありません
むしろこの道で生きていこうと学び生きて、いろいろあってボロボロになりつつも、こいつから離れることはできません

だからと言って自分がPCだけに熱中して生きていたか、と言うと違います
今や趣味のレベルでしかありませんが、自分が別の道を選んで生きていたらどうだったのだろう
と考えることがしばしばあるのです


自分は実は、理数系と言うよりも理科系の方が好きだったりします
その中では、時々話しておりますが、生物学がとても好きです


現生生物でもイケます
古生物学もイケます
つまり、生物学というよりも、生物の歴史にひじょうに惹かれます

生命とおぼしきモノが地球上に現れて、今に至るまでおよそ34億年(諸説ありますが)
その中で命がどのように発生し、どのように発展して滅び、次なる世代が生まれていくか、というドラマがたまらなくハマります
その手の本は家の書棚に沢山並んでいます
しかしこう言う話題、周囲で通じる人が居ません
例えば動物園でモルモットを見ると、ふつうの人は可愛いか愛らしいかと語らいますが、自分だと「耳がここにあるのはどうしてか」「この毛深さはなんのためにあるのか」を考えてしまい、どうしても周りから浮いてしまうのですw
事実、先日技術評論社の生物学の本をご紹介しましたが、全く反応無くスルーでございました
実に悲しい(苦笑

だからって、親しい人にこんなことを語り、好きになれと言うのは筋近いですが

さて、そんな生命の長い時間の中でどこにポイントを絞るかというと、これはまた難しい
センセーショナルな話題を巻き起こした、エディアカラやカンブリアの生物
地味なようで実は重要な、石炭紀からペルム紀における陸上覇権争い
古生物というと皆ここに注目しちゃう、三畳紀から白亜紀の恐竜の時代、どれも捨てがたいです

では現生生物ではどうかというと、これはもう鯨類が一番好きです
特にハクジラ、もっと言うとシャチの、海生肉食哺乳類として完成されたあの姿には、もはや好き嫌いを通り越して畏敬の念を覚えます
もちろん、シロナガスクジラのような髭鯨類の、スマートな装いなども捨てがたいモノです


その手の本を読んでいると、いろいろなトリビアに出遭って「ほほー」と感心することも多いです

ちょっとどの書籍だったか忘れてしまいましたが
「両生類や爬虫類は、出土した骨格にある程度皮を被せれば復元できるが、哺乳類は骨格からでは外見が判らないが大変」
と書かれていて、言われてみればそうだなぁと気づいたってこととか
あの辺りの軟組織は化石に残りませんので
象の骨格を見て、あの耳と鼻を連想できますか?
犬猫の骨格を見て、愛らしい耳や尻尾が判りますか?
もし何万年もして、現生生物が居なくなった世界で我々哺乳類が発掘されたとして、とんでもない復元をされるかも知れませんね

と言っても
このところは質のいい化石が山ほど見つかって、羽が生えた復元をされる恐竜が増えましたが、ドイツのゾルンホーフォエンで見つかるような、羽毛の印象が残る化石が見つからなければ、恐竜も未だ現生の蜥蜴類を参考に復元を行っていたでしょう
もし、鳥類では無く真正の恐竜の生き残りがいたら、そんな恰好じゃ無いぞ!って抗議されるようなことを、我々はしてるかも知れません

そういえば先日見つかった、琥珀に閉じ込められた恐竜の尻尾、解析進んでるのかな
ですがこう言った知識は、その道の専門家の方が書いた書籍等から得た知見ですから、自分はあくまでマニアの域を出ません

ならば自分自身がその道に進めるように学び、フィールドワークとして生き物を研究する、或いは化石を発掘すると言った事に従事していたら、という別の人生に憧れてみたりするのです
ちなみに、鯨好きだからと言って、自分は反捕鯨派ではありません
と言うかね、自然保護って言う考え方自体は自分は大嫌いなんですよ
それ自体が実におこがましい行為だと、どうして誰も考えないんでしょうかね

生き物を愛でる行為と
生き残るために生き物を殺す宿命は
同時に存在していても、同列で語ることはできません


もっと言うなら
食べるために他を殺し、食べられるために他に殺される
食べられ食べ尽くした後、土に還る
この約束事から離れて生きているのは、我々人類だけなのです

その観点で「自然」を見てはいけません
これも生物の本を読み込んで来ると判るのですが
A群という動物群の存在は、B群という動物群に対して捕食者であると同時に、C群という動物群から捕食される立場にあります。いわゆる食物連鎖というやつです
この場合、A群の存在はB群の生息数を適度に抑止すると共に、C群の生息数を維持するためにも存在します
しかもこの連鎖は直線的なものではなく、A群は他のD群にとっても被捕食対象であることもあるし、C群はE群という生物を補食している可能性もあります
無数の生物同士が、互いにどう関わっているかは非常に複雑であり、その全てを理解するのは困難を極めます

こう言った関係性が有る中で、人間からの視点である生物群の数が減っていることを発見した場合、対策を取るという「自然保護」活動は本当に有効なのでしょうか

生物は互いに天敵を持っており、それ故にバランスが保たれている例は少なくありません
天敵不在の孤島に山羊を放った結果、個体数を調整しきれずに山羊が増えすぎてしまい、結果として島の植物を絶滅させた話などは有名ですね
そういう視点で考えれば、肉食であれ草食であれ、人間が特定の生物を観察して把握している個体数など、「適正な」生息数としてはアテにならない可能性は大です

また、生物の個体数にかかるストレスの増加は、場合によって進化を促すきっかけになることもあるでしょう
実際生物の歴史を眺めれば、ある条件(淘汰圧と言います)に晒された生物から、次世代に対応した変化(往々にして突然変異と言われるもの)が起きて、それらが多数派になった場合に新種として独立していくようです
であるなら、現在進んでいる温暖化に対し、生物自身が自らの力でもって対応し、生き残るための形態を獲得することは無いとは言えません
「生態系の変化(破壊)」により、ある個体群と他の個体群の混血を憂慮の対象とする考えもありますが、それさえも新たな生物群発生のきっかけになるかもしれません

確かに人類は有史以前から、それと知らず多くの生物を絶滅させてきました
特にヨーロッパでの大航海時代開始後、(主に西欧の)人類が狩り尽した生き物は100を越えます
だからといって、今後の全ての絶滅や純血種の滅亡阻止し、「そのままを尊重しよう」というのは、傲慢極まりない考え方だと自分は考えてしまうのです

生命の歴史の中で、地球という偉大な母と、宇宙という大いなる器の気まぐれで、その姿を消した生き物はごまんといます
恐竜は滅びましたが、それはその気まぐれが彼等にとって致命傷であり、よって然るべくして次の時代がやってきたのです
生物とはそう言う物であり、時に合わせて変化していくのが常であると、生物学は教えてくれます

いやまぁ、つらつらと話を書いてきましたが
要するに人類の言う「自然保護」っていうのは
現生人類が生きていける環境を保持する、という意味のことであって
決して地球のためでも何でも無い
、ってことが判っちゃうんです
なにせ現生生物では現生人類(特に北半球)が、一番滅亡しやすい状態にあるのは火を見るより明らかです
現在まであった五大絶滅の結果を考えるなら、突然変る環境変化に耐えることができる柔軟性こそが、次の世代に命をつないでいったと考えられます
現生人類ほど、環境変化に無力な存在は無いでしょう
現在我々が生活を維持できているのは、文明・社会性・科学技術等の衣に護られているからであり、この中のどれかでも失えば、我々はあえなく滅亡できます

でも、こんなことを書いていても、所詮自分はアマチュアなんです
こうしてブログに色々書いても結局戯言ですし、意見を述べるにしても背景にする資料をどうするか、なんて知識もプロには及びません

正式な学者さんになって、もっと客観的なデータを得られるようになって、そしてどんな形でも良いから論文など出せたらなぁ
そんな風に憧れます・・・
本当の意味での自然の中で、人類が文明を維持しつつ、「適正な数」で存続していける研究がテーマ、かな
(どう考えても現生人類の数は多すぎる)


この手の仕事は必ず一定額のお給料が入るわけじゃ無い・・・
好きなことは好きですが、生活できなければ仕事にしようが無い

もしかしたら、そういったことを恐れてきた事自体、人生間違ったのかも知れませんが

でも、さっきみたいな戯言を言う学者には、スポンサーは付きそうにありませんね・・・(苦笑
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テーマ : 今日のつぶやき - ジャンル : 日記

2017/01/13 20:09 | 雑記COMMENT(1)TRACKBACK(0)  TOP

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