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カウンセリングの成果~己を「出す」ということ~

本日が仕事納めだった方も多いでしょうが、世の中にはそうも行かない方も居る
残り数日、年が勝てもお仕事の皆様、お疲れ様です

一人暮らしとなり、初めての年末
毎年実家に居た頃は、年越し蕎麦やらお正月飾り、おせちの用意等ありましたが、さてどうしようか
街に出ると相変わらず、お煮染めのセットやら栗きんとんのパック、かまぼこが山のように積んであります
もちろんおせちセットも売ってますが、どれもこれも自分にとっては量が多い
食べられるだけあればいいんだよなぁ、と思っていてふと、実父のことを思い出しました

実父宅は貧しかったらしく(詳しく語らないので詳細不明)、あまり豊かな食卓では無かったらしい
そのせいか実父には、「沢山の種類のおかずが、沢山盛って並んでいること」が良い食卓、という変な概念があります
私は一汁三菜で充分なのですが、父の卓にだけ10種類以上のおかずがゴロゴロ並んでました
これを全部食べるわけでも無く、ツマツマして若干残す。日にちを分けて食べきれる量でも無いのに
実母は残したら棄てれば良いって笑うんですけど、そこなんか違わん?って子供の頃から疑問でした

まぁここは、もう育った時代の差異なんでしょうね
とにかく食べる者自体が不足していた時代からすれば、お腹が満たされることが優先で、その後に残った物まで気が向かないんだろうなぁ
ちなみに私は、いわゆるカット野菜にずいぶんお世話になっています
あれはいいよね


前回、前々回と引き続き、自らを紐解くカウンセリング
一つ前のことで、自分の中にはきちんと「怒り」が内包されていることを認識した
だが現状では「それ」をどうして良いか、判らない
怒れないことが、鬱や自己嫌悪の元ではあるのだが、ではそこに身を任せてしまっていいのだろうか


それでは、自分にこんな感情を与えた相手と同じになるのではないだろうか
私は他者の怒りに晒されたとき、どうしていいか判らなかったことから、今の状態に陥ってきた
その自分が怒りに怒りで返すのは、何か間違っている気がする

カウンセラーにはそれを正直に伝えた
そしてカウンセラーも、別に怒れば良いというものでは無い、と言う事に同意はしてくれた

人間の感情は、本来「気持ちいい」か「気持ち悪いしか無い」というのが、カウンセラーからまずアドバイされた言葉だった
赤子のうちはその二択によって、笑ったり泣いたりする(お母さんと一緒に居て気持ちいい=笑う、おしめが濡れて気持ち悪い=鳴く)
その内感情が芽生えてくるについて、嬉しいや嫌だという感情が表れる
つまり複雑な感情は二次感情と考えられるという
子供の頃のアスペルガーやADHDについては、この二次感情が暴走し、コントロールができないことが多く、さらに目立ってしまうことから、問題児扱いとなるという
なので本来的にはこういう場合、怒りのコントロール力を磨くのだそうだが、その提案をされたときに自分は困った
なぜなら自分が、本当に小さい頃から怒ったことがなかったからだ

小さい頃の話は、祖母や母の伝え聞きだが
夜泣きしたことが無い、ぐずったことが無い、ベビーカーに揺られていても泣き笑いしない
親に駄目と言われたことについては、すぐに飲み込んで駄々をこねない
弟ができた時も嫉妬した様子を見たことが無い
赤ちゃん返りも無い
良く言えば手のかからない、悪く言えば不気味な子だったらしい
祖母は本気で「この子はホンマに育つんやろうか」と悩んだそうだ

と言うわけで自分は、理由は不明ながら、所謂二次感情が形成される以前から、怒るという事に対して逆の意味でアプローチ出来ないタイプだったようだ

後に虐めに遭ったとき
上履きを焼却炉で燃やされたこともあった
通常なら泣き叫ぶなどあるであろうところ、自分はその光景を「飲み込んだ」あと、素足で帰宅した
自分がいじめられっ子なのは町内でも有名だったので、過ぎゆく人は私に何が起きたか察したであろうか、ひそひそと話をしているが関わっては来ない
帰宅して親に状況を尋ねられても一言、靴を燃やされた、と言って終わってしまう
階段から蹴落とされたこともあった
幸い怪我はしなかったが、自分は相手を一瞥して元々行こうと思っていた校庭へ向かうだけだ。保健室にもまして教務員室にも行かない


カウンセラーも驚くほどの、強烈な「諦め」がそこから見えると言う
このような状況は、肉親から虐待を受けた人にも見られる特徴で、痛みに対して鈍感になってしまうのだという
我慢すれば、痛くないから

そんな中、よく学校に通ったと褒められたが、それは単に自分が
「決められたルーチンワーク」
以外のことを行う方に、物凄い労力(勇気)が要るだけなのである

虐めがあろうが何だろうが、学校に行かないという選択肢を採る方が辛い
会社もそうで、パワハラがあろうが何だろうが、会社に行かないという選択肢を採れない
これもまた、虐待に遭った人に見られる傾向で、毎日暴力を受けているので、暴力がない日が逆に怖い、と

だがそう考えると、今までずっと諦めによって自分を押し込めてきた中で、今年初めて
「今の仕事場は自分に合わない」
と会社に訴えたのは、ある種の脱皮だったのでは無いのか
、とカウンセラーに伺ったところ、そこなのだと言われた
自分が我慢すれば何とかなる、という固定概念から一歩を踏み出し、自分を「出す」こともまた、ある種の「怒り」の表現であると

どうやら年末に至り、大きな一歩を踏み出したようだ

だが
ここまでで何度かカウンセラーに褒めてもらってるが、それが全く飲み込めないことが自分としては辛い
精神科医の経験談で、医者に言われた一言でホッとしたと言う話をTwitterでも良く目にするが、アレが私には全く判らない
なんでそれで安心できるのか、羨ましい
認めて欲しいという願望がありながら、どう認められたら良いのか判らない
次なる問題はここのようだ

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テーマ : うつ病(鬱病)、メンタルヘルス - ジャンル : 心と身体

2018/12/28 21:49 | 雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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